アフリカ友の会

第6回 NGOアフリカ友の会からの現地報告   「電話でデート」 

 
 イブとムサとの別れは、「また、来週ね」といつも週末に分かれるのと同じく淡々と別れたが、もう2度と会えないだろうという思いがこみ上げ、彼らが診療所を去った後から涙が溢れた。彼らが父親の祖国マリ共和国の叔父さんに引き取られることが決まってから、養母である祖母は毎日泣いていた。


マリ国の田舎でエイズの継続治療は可能なのか、気候も食習慣も異なる地で養母から切り離され、生活に順応してゆけるか心配は尽きず、私たちは叔父さんに対して子供がかわいそうだと怒っていた。祖母は「イスラムの社会では、女性の意見は聞き入れられない。
孫たちはHIVの陽性者だから、その村の診療所にエイズの薬があるのか叔父さんに聞いても返事をしない」と言っては大粒の涙を流した。

 私は、飛行機の旅だと思い込んでいたが「長距離バスを乗り継いで行く」と聞いた時、それは冒険家がすることで、子どもでしかもエイズ患者がすることではないと私は激怒した。


*アフリカ友の会がイスラム教徒の小学校で
HIVの啓発教育をしたときの写真です。

 陸路で2−3週間余りの旅に彼らの心身両面が耐えうるだろうかと私は暗澹たる気持ちになった。祖母は「叔父さんは飛行機のチケットを買うお金はないのです」と言った。「叔父さんは、甥たちの命のことは考えているのかなあ」私がつぶやくと、祖母はまた涙を流した。 

 イブとムサの父親は、マリ人で中央アフリカ共和国へダイアモンド商人として出稼ぎにきた人だった。彼らの母親は、マリ系の中央アフリカ共和国人だった。父親がエイズで亡くなり、その後母親はエイズを発症し、次男のムサが2歳の時に亡くなった。母親亡き後、彼らは母方の祖母に引き取られ、今まで祖母を母親として育ってきた。

 祖母は、母子感染していた二人の孫を溺愛して育てた。しばしば体調を崩すイブ、いたずらっ子のムサを洋裁の内職をしながら育てた。生活は貧しかったが、幸せだった。家庭を訪問した時、ムサが「このベッドの真中におばあちゃんが寝てぼくたちは両側に寝ているんだ」と教えてくれた。おばあちゃんは微笑んでいた。

 イブは12歳、ムサは10歳になった。イブは2年前よりエイズの薬を飲んでいるが、ムサの症状は安定している。叔父さんは、彼らが孤児になったときから引き渡しを要求していたが、祖母は「子どもには、母親が必要だ」と引き渡しを拒み続けてきた。しかし、叔父さんは、彼らは10歳を過ぎたからという理由で一方的に連れに来た。

 彼らは、3月7日の早朝に乗り合いバスで出発した。祖母は、洋裁をしながらため息をついてはぼんやりとして空を眺める日が続いた。私は3月24日に首都バンギを発った。上空からアフリカ大陸をずっと眺めた。イブとムサの旅は、隣国カメルーンを北上し、さらにナイジェリア、ニジェールを通過してマリ共和国に入るのだ。私が機内で飲み食いしてリラックスしている間も彼らは炎天下の中、長距離の乗り合いバスに揺られているだろう。飲料水や食べ物はあるのか、病気したら適切な治療ができるところがあるのだろうかと眼下に広がるサヘル地帯を眺めながら彼らを思った。

 帰国後、恐る恐る祖母に電話した。「孫たちは3週間かかってやっとマリの首都バマコに着いたよ」と弾んだ声を聴き胸をなでおろした。孫たちは長旅で疲れ果てているので、しばらくバマコで休養をした後に故郷の村に移動すると言った。祖母は、子どもたちに電話をしてと言って私に叔父さんの携帯電話を教えてくれた。

5月5日はムサの11歳の誕生日だと祖母が教えてくれたので、私はマリ国の電話番号を押した。呼び出し音が聞こえた。私の胸はドキドキし始めた。「アロー」女性の声だった。「ムサをお願いします。日本からです」「ムサ、日本から電話よ」と呼んでいるのが聞こえる。「マダムだ」とムサの声が遠くから聞こえる。

「マダム」
 ムサの元気な声が私の耳に響いた。いつも通りのやんちゃなムサがそこにいる。
「ムサ、お誕生日おめでとう」
「マダム、ありがとう。僕は元気だよ。」
「マダム、イブだよ」イブの元気な声も耳元にある。

 彼らの声を聞いてすべての心配が杞憂であったと胸をなでおろした。
彼らともう会えないと悲しんだが、携帯電話が私の望みを叶えてくれた。どこにいても彼らの声が聞きたくなったら携帯電話に登録している番号を押せばいい。彼らがそこにいる。
私は、ずっと彼らの成長を電話を通して感じてゆきたい。


2011年6月1日 徳永瑞子